今日、養老さんの『希望とは自分が変わること』(新潮社)を読んでいた。
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人について関心があるのは、だから無意識である。解剖学で扱う身体は、まったくの無意識である。
本人の意識はとうの昔に消えてしまっている。でも身体は残っている。
なんとも不思議じゃないですか。
(中略)
世界観そのものを吟味するより、その世界観の成立の背景を見ようと私は思う。
それが身体で、その身体は語らない。
語らないものを相手にするなら、こちらが「考える」しかない。
どうせわかりはしないと思うけれども、どこかまでは、つまりわかるところまでは、わかるはずである。
そう思って考える。
(中略)
「考える」ことは、自分の意識の中に埋没することではない。
そこからなんとか出ようとする作業なのである。
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この間、ASSCという意識の学会が京都であったので久しぶりに行った。
色んな人がいた。
一番すごいな—と思ったのは、ハンフリーだった。
次から次へと新しく面白い実験を考案して、どんどんどんどん進んでいく、というような人達も居れば、
ハンフリーのような人もいて、
不思議なことに、ハンフリーは、誰かのトークを聞く度に手を挙げて質問する人だけど、
「消費」という概念からはとても遠いところにいる人の気がして、
なんだか、色んなモノからそれぞれの人がとってる距離みたいなのがあって、
私は英語が聞こえなくなる度に、そんな方へ意識を飛ばしていた。
梅雨の京都は、本当に気持ちが良いんだなあ。
こんな最高のときって知らなかった。
雨が降っていたけど、
夜なんだか晴れ間が出て、上弦よりも少しだけ太った月がのぞいた。
哲学の道に蛍が出るときいて、
夕方、小俣さんと石川君と出かけていった。
まだ明るいときで、ほんとうに蛍なんているの、とかいいながら歩いて、だんだん暗くなって、
一番星ならぬ、一番蛍が、ゆら ゆら と飛んだのは、本当にこの世のものじゃなかった。
後からタクシーで追いかけてきて、哲学の道の南禅寺側の終端から歩いてきた柳川さんが、
俺、もう20匹くらいみたけど、と自慢した。
すっごい脈略のない話。
Thursday, 16 June 2011
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