小学生の頃、自分が持っていた筆箱が、
他の子の持っているキャラクターの絵のカンペンとかびっくり機能おもちゃ付き筆箱じゃない
赤い皮の筆箱で、とても地味なように感じて恥ずかしかった。
缶ペンを買って、といっても、絶対に買ってもらえなかった。
そして自分のランドセルが、他の子はツルツルの赤なのに、
皮で、ザラザラした赤なのがやっぱりとても恥ずかしかった。
今、恩蔵さんと言えば、赤だよね、というくらい、
赤いものが大好きでひたすら色々赤いけど、
気がついてみれば、コンプレックスのような存在だったことに気がついて、
机の引き出しを探してみたら発見。
わたしがなんか色々自由になったのは大学生の後半から。
今は、幼稚園の時の気分。
小学生以降は、人という鏡を手にして、数々の失敗。
熱を出して病院につれていかれて、尿検査なんてそんなこと絶対するものか、と、
尿検査が必要なたくさんの見知らぬ人たちの前で叫んだことがある。
今も数々の失敗。
だけど、
今大事にしているものはまだ存在しない自分(の将来作るもの)の像。
失敗を他者に帰さないようにしよう思うだけ、
随分楽になった。
学習の最終目標は無限遠にあるべきだ。
だからこそその全ての責任は自分に帰すことができる。
そうか、と起こしたことも、起こったことも、ただただ、受け入れると言うこと。
まだ見ぬものを目標としたとき、
果たして今の学習理論は適用可能であるのか。
目標を無限大にとばすことは、
どうなるかわからない未来を受け入れることだ。
来るか来ないかわからない出来事の学習と同型だ。
目に見える何か(例えばベイズタイプ)の学習と見えない何かの学習はどこでどうつながるのか。
今なき何かへの志向性は、
過去を振り返る時にも、
生きてる人を思う時でもきっと同じで、
自分と人の間に断絶を感じるからこそ
無限の愛でいきてこうとするんじゃないか。
そもそもことの始まりに、
信じると言うことがなかったら、
今も昔もこの先も、
全く全然つながらない。
Sunday, 20 January 2008
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