小林秀雄の『美を求める心』のある章について
池田塾で発表した。
その原稿を公開いたします。
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こんにちは、恩蔵絢子と申します。
今、私が最も興味を持っているのは、言葉、です。
ここでこんなことを言うのはとても怖いのですが、
言葉を使った仕事がしたい、と思っています。
『美を求める心』を読んで、私がお話ししたいと思ったのは、
この章にでてくる、「置き換える」という言葉や、「姿」という言葉についての
私自身の体験でした。
その前に、この章の第一段落では、
「煙草を下さい」といって煙草をとってもらったら、それで用がなくなってしまう言葉、
ということが書かれていて、
また、別の章には、ダンヒルのライターの話の所で、
ダンヒルのライターが機能と置き換わってしまうこと、
つまり、それ自体を美しいといって見てくれる人は誰もいなかった、
火を付けるという機能を果たしたら、それ以上見てもらえなかった、
ということが書かれていたと思います。
私は、こういう文章を読むと、自分の身を重ねてしまって、
もし、私が、一つの機能としてしか見てもらうことができなくて、
何かの機能を果たしたら、それで終わり、ということになってしまったとしたら、
どれだけ怖いだろう、ということを思うのと同時に、
私自身が日常で使う言葉を考えてみると、やっぱり、
そのように使っていることがとても多いことに気付いて、
だからこそ、せめて、作品を作る時だけは、
その物、その人に、徹底的に寄り添った形で作りたいと思っているのです。
それで、「置き換える」ということについての、私自身の経験、ということですが、
私は、「置き換える」ということには、今お話ししたような理不尽さ、も含めて、
何か私達の存在に関わる、とても重要なことがあるような気がしています。
私は、恐山に行ったのですが、
恐山というのは、死者が集まる場所、そこに行ったら死者に会える場所、と言われているところです。
恐山に着くと、お堂がありました。
お堂を開けると、なくなった方の遺族の方々が持ってきたものがぎっしりと詰め込まれていたのです。
どんなものがあるかというと、
なくなった人の着ていた、ハンガーに掛かったままのスーツ、とか、シャツ、とか、
靴、とか、湯飲み、とかがぎっしりと詰め込まれていて、
私はそれを見た時、ほとんどパニックを起こしかけていました。
どうしてかというと、
その物々が、あまりにも、そのまま、だからで、
例えば、スーツには、その人の着ていた肩の跡がはっきりとついているのです。
だから、私は、
自分の父親が、朝、それをハンガーから外して、身につけて、行ってきますと言って、
出て行くのが見えたような気がしてしまったのです。
そのものがあって、その人がいない、
物と人とが置き換わってしまったような体験でした。
それ以来、私は、母親が近所のスーパーで数百円で買ってきた、
見るべき所の何もない湯飲みなんかに目が留まるようになりました。
これは、小林さんの書いている、菫の花の美しさを見る、
というような経験とは違いますが、
私なりに、日常の物に目が留まるようになった経験の一つで、
これは、物に人の魂を見るというような経験だったと思っているんです。
そして、ちょっと話は変わりますが、
私はずっと顔の研究をしてきました。顔と自己との関係の研究です。
どうして、そんな研究をしてきたかと言えば、
私には、自分の顔を自分が一番知らないという恐怖心があったからだと思っているのです。
自分の顔は自分で直接見ることはできません。
だけれども、他者は直接それを見ています。
そんな中で他者と関わって行かなくてはならない。
それで私には、うまくしゃべれなくなったり、たくさんの問題が起きました。
私は、鏡を見ても、鏡を見た瞬間に少し力が入って自分を作っているような気がして、
自分の姿を得た、と感じられたことが一度もないのです。
けれども徐々にこのような感覚からは解放されつつあって、
その一つが、池田先生がお話しして下さった、
小林秀雄さんがなぜ文芸批評を止めて、美の世界へ移っていったのかというお話でした。
「自分を託すに足るもの」がなかったから、美の世界へ言ったのだ、とおっしゃったと記憶しています。
私は、「自分を託すに足るもの」という言葉を聞いた瞬間にとても衝撃を受け、
この言葉がひどく心に残っているのです。
ちょうどこの言葉を聞いたとき、
私は、ロラン・バルトの『明るい部屋』という本を読んでいました。
これは、バルトの書いた写真論なんですが、
彼の母親が亡くなってすぐに書かれた本で、
母の本と言っても良いような物なのです。
そこに、母の膨大な写真を整理する場面が出てきます。
バルトはどの写真を見ても、母の写真だということはわかるけれども、
自分の愛したあの母親の姿はどこにも写ってない、
やっぱり彼女は永遠に失われてしまった、といって嘆くのです。
これは、私が鏡を見ても自分の姿を得た感じがしないという感覚ととても似ているなと思いました。
でもバルトは、最後に一枚母親が小さな頃の、
彼女のお兄さんと手を繋いで写っている写真を見つけるのです。
そして、その、自分が知っている母の姿から最も遠い、まだ子供の頃の母を見て、
「ああ自分が愛した母がここにいる」といい、更には、
「自分は母親という存在を愛していたのではなくて、
彼女がこういう人だったから、僕は彼女を愛したのだ」と気付くのです。
私はこれを読んで、自分の姿を得たことがないというのは、当たり前だったのだと思いました。
もし、私が自分の姿を得ることがあるとするならば、
それは何か別物になることではないか、と思いました。
私がいままでに最も感動した経験は、
ある場所と出会ったとき、
自分が殺されたような気がして、あまりの理不尽さにその場でわんわん泣き出す、
ということが起こりました。
私は、感動したときだけは、心が実際に動いたと感じて、
自分が確かにいる、と感じることができるのですが、
最も感動した経験は、自分が殺されたような気がした経験だったのです。
だからもしかすると、
自分の姿をはっきりと得るということは、
自分が消えるときなのではないかという直感を持っているのです。
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以下、その担当した章。小林秀雄全集21『美を求める心』より
さて、前に、諸君が日常生活で、どんな風に、眼を働かせているかについて述べたが、
此処でも、では、どんな風に言葉を使っているかを反省してみて下さい。
例えば、「煙草を下さい」と誰かに言って、煙草が手に入ったら、
「煙草を下さい」という言葉は、もう用はない。
その言葉は捨てられて了います。いや、「煙草を下さい」という言葉が、
相手に通じたら、もう、その言葉に用はないでしょう。
相手も言われた言葉が理解できたら、もうその言葉に用はないでしょう。
日常生活では、言葉は用事が足りたら、みな消えてなくなる。
そういう風に使われていることに、諸君は気が附かれるでしょう。
言葉は、人間の行動と理解との為の道具なのです。
ところで、歌や詩は、諸君に、何かをしろと命じますか。
私の気持ちが理解できたかと言っていますか。
諸君は、歌に接して、何をするのでもない。何を理解するのでもない。
その美しさを感ずるだけです。
何の為に感ずるのか。
何の為でもない。ただ美しいと感ずるのです。
では、歌や詩は、わからぬものなのか。そうです。わからぬものなのです。
この事をよく考えてみて下さい。
ある言葉が、かくかくの意味であるとわかるには、
Aという言葉をBという言葉に直して、
Aという言葉の代わりにBという言葉を置き換えてみてもよい。
置き換えてみれば合点がゆくという事でしょう。
赤人の歌を、他の言葉に直して、歌に置き換えてみる事が出来ますか。
それは駄目です。ですから、そういう意味では、
歌はまさにわからぬものなのです。
歌は、意味のわかる言葉ではない。感じられる言葉の姿、形なのです。
言葉には、意味もあるが、姿、形というものもある、
ということをよく心に留めて下さい。
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「置き換える」について補足:
とっても、素敵な瞬間は、もう戻ってこないし、
私の頭の中の幸福に変わってしまった。
自分の出会うものごとを、
ごまかしなく消化して、
自分の血肉に「置き換える」ことでしか、
その瞬間を残す術はない。
そういう形で、生命のコピーができたらいい。
Monday 29 October 2012
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