Saturday, 20 June 2015

雑記:フィンランド日記2

ヘルシンキの中央駅、すなわち最も人の行き交う騒がしいエリアに、
突如現れる、巨大なゴミ箱のような、船のような、異様な物。
それがカンピ礼拝堂。























2012年に作られたばかりで、
ここではミサや、結婚式、そういう儀式的なことは一切行われず、
ただ「静寂と、人との出会い」があるだけだと書いてあった。
実際、中に入ってみると、いつまでもいつまでもいたくなるほどに、神聖な気持ちになる。
何があるかと言えば、木の椅子や、クッション。長い蝋燭に、木の小さな十字架。
すべすべのあたたかい木の壁面に、空から卵形に差し込む太陽光。
神聖さというのは、教会の権威とか、儀式とかには寄らないものなのだなあ、と改めて思う。
今生きている人が、一番騒がしい場所でさっと入れて、さっと求めて、出て行ける。
そんな祈りの「デザイン」がされていた。

礼拝堂に対して、街中に置かれた巨大なゴミ箱というのは罰当たりだけれども、
周りの喧噪を吸収してしまうし、
どんな宗教の人でも、私のような観光客でも、誰もが足音を潜めて、腰掛ける、
そんな説得力と、寛容さと、飲み込む力があるのだった。
奇抜というより、reasonableという気持ちがしてくることに、
さすがデザイン大国、と思ってしまった。

















それから、一番心に残っているのは、ある夜に偶然出会わせた、
道路上どこまでもつづく白いテーブルセッティングだ。






















看板によれば、予約した人たちだけが座って良いことになっているのだけれども、
どこまでもどこまでも、いつもの道路に白いテーブルクロスが続いている。

Esplanadiにて。大体午後7時半。























サーブしている人はいないように見えたから、
多分それぞれに持ち寄って、ここでディナーをとるだけなのだ。
青空の下、本当に楽しそうにしていることがものすごく印象的だった。
多分それはとっても気持ちの良いことだから。

気がつけばその日は、6月12日の「ヘルシンキの日」で、
ここは、札幌大通り公園のようないつも賑わっている場所なのだけれども、
(鈴木芳雄さんに札幌大通り公園のようなところがある・・と聞いていたけれどほんとうに、その通りだった。)
いつもより遙かに人がいて、
テーブルを予約していなくても、
芝生で友達同士、シャンパンで夕食を広げているのだった。

この通り沿いのレストランで、
みんなで茂木さんにものすごくおいしいディナーをご馳走になってしまったのだけれども、
その窓越しに、この公園をずっと眺めることができて、
金の糸のような長い髪の女の子二人が、くつろいでワインを飲んでいる様子は、
まるで天使を見るようだった。

お酒をたくさんいただいて、外に出ると、9時半を過ぎていた。
つかの間の夏の、暮れない日のお祝いは、ますます力をつけているように見えた。
騒がしいと言うよりも、妖精の祝祭的に見えるのは、どうしてなんだろう?

田森さんが「この国は、当たり前なことを、当たり前にやっているのがいいよね。
小さな島をみつけたら、その上に家を建てたいし、
(この国では、海や湖に浮かんだ家一軒分のサイズの小さな島に、ちゃんと家一軒が立っているのだった。郵便屋さんはどうするのだろう?)
一部の馬鹿なことをする人のために、全てを禁止するような、
そういうばからしいことをしないのがいい。」
と言っていた。




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