突如現れる、巨大なゴミ箱のような、船のような、異様な物。
それがカンピ礼拝堂。
2012年に作られたばかりで、
ここではミサや、結婚式、そういう儀式的なことは一切行われず、
ただ「静寂と、人との出会い」があるだけだと書いてあった。
実際、中に入ってみると、いつまでもいつまでもいたくなるほどに、神聖な気持ちになる。
何があるかと言えば、木の椅子や、クッション。長い蝋燭に、木の小さな十字架。
すべすべのあたたかい木の壁面に、空から卵形に差し込む太陽光。
神聖さというのは、教会の権威とか、儀式とかには寄らないものなのだなあ、と改めて思う。
今生きている人が、一番騒がしい場所でさっと入れて、さっと求めて、出て行ける。
そんな祈りの「デザイン」がされていた。
礼拝堂に対して、街中に置かれた巨大なゴミ箱というのは罰当たりだけれども、
周りの喧噪を吸収してしまうし、
どんな宗教の人でも、私のような観光客でも、誰もが足音を潜めて、腰掛ける、
そんな説得力と、寛容さと、飲み込む力があるのだった。
奇抜というより、reasonableという気持ちがしてくることに、
さすがデザイン大国、と思ってしまった。
それから、一番心に残っているのは、ある夜に偶然出会わせた、
道路上どこまでもつづく白いテーブルセッティングだ。
看板によれば、予約した人たちだけが座って良いことになっているのだけれども、
どこまでもどこまでも、いつもの道路に白いテーブルクロスが続いている。
Esplanadiにて。大体午後7時半。 |
サーブしている人はいないように見えたから、
多分それぞれに持ち寄って、ここでディナーをとるだけなのだ。
青空の下、本当に楽しそうにしていることがものすごく印象的だった。
多分それはとっても気持ちの良いことだから。
気がつけばその日は、6月12日の「ヘルシンキの日」で、
ここは、札幌大通り公園のようないつも賑わっている場所なのだけれども、
(鈴木芳雄さんに札幌大通り公園のようなところがある・・と聞いていたけれどほんとうに、その通りだった。)
いつもより遙かに人がいて、
テーブルを予約していなくても、
芝生で友達同士、シャンパンで夕食を広げているのだった。
この通り沿いのレストランで、
みんなで茂木さんにものすごくおいしいディナーをご馳走になってしまったのだけれども、
その窓越しに、この公園をずっと眺めることができて、
金の糸のような長い髪の女の子二人が、くつろいでワインを飲んでいる様子は、
まるで天使を見るようだった。
お酒をたくさんいただいて、外に出ると、9時半を過ぎていた。
つかの間の夏の、暮れない日のお祝いは、ますます力をつけているように見えた。
騒がしいと言うよりも、妖精の祝祭的に見えるのは、どうしてなんだろう?
田森さんが「この国は、当たり前なことを、当たり前にやっているのがいいよね。
小さな島をみつけたら、その上に家を建てたいし、
(この国では、海や湖に浮かんだ家一軒分のサイズの小さな島に、ちゃんと家一軒が立っているのだった。郵便屋さんはどうするのだろう?)
一部の馬鹿なことをする人のために、全てを禁止するような、
そういうばからしいことをしないのがいい。」
と言っていた。
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