最近、聞き書きというお仕事をさせていただいている。
「聞き書き」というのは、どういう存在なのかしばらく悩んできた。
話をしてくださるご本人が書かれるのが一番面白いし、誤解も無いし、人にも読みやすい。
ご本人もわざわざ私を通すのは、迂回でしかないだろう。
私を通すのは、どうしてもダウングレードになってしまう。
だけど最近見えたのだ。
もちろんこれは、池田雅延さんが、小林秀雄の文章は肖像画なのだとおっしゃったり、
自分の心の中にあるものと、文章とが、ぴったりと割り符になるように描けとおっしゃったりしてきたことなどが
積み重なったからなのだけど。
語られた言葉の中で、一番私の心が動いたこと、一番私によく聞こえたところ、
そこだけを、一枚の絵として完成させれば良い。
私の心を動かしたように、人の心を動かせるかどうか、そこを気にして描けば良い。
その言葉のよさが伝わるように、その言葉が最も際立つように、描けば良い。
その言葉の絵を描くのだけれど、キャンバスのはじからはじまで手を入れるのは私。
お話になった言葉を、書き起こしただけだとどうしても言葉は死んでしまう。
語り言葉は文法的にめちゃくちゃなことも多いし、それがために勢いで伝わっているところがある。
それを文章では整えなくてはならないし、てにおはなどのこまかい選択でも、どんどん勢いが落ちてしまう。
語ったことを文章にするだけでは、どうしても血は冷めてしまうのだ。
人は、血の通った言葉でなければ、絶対に読んでくれない。
それが一番大事なことなのではないだろうか。
お話になった言葉の勢いを、復活させるために、わたしは自分の驚きを描かなくてはならない。
自分の意見に変えてしまうこととは違う。
自分の意見を述べれば血は通うのだけれど、私はそれほど面白い意見は持っていない。
それに、仕事として求められているのは、あくまでも「聞き書き」なのである。
お話になった人の言葉でなければならない。
だから、お話になった人と、私のANDをとることが必要で、
私に一番聞こえたところを、一つの文章として完成させる、
私とおんなじように人の心が動くように努力する、というのが一番良いのである。
耳に時間的に入ってきたことの中の一つを、空間的に描く、その努力をすれば良いのだ。
それから、誤解を恐れずに、その人の言ったことはこういうことだと思う、というところを言い切らねばならない。
あくまでも私の心の動きを描かなければ、血は通わないのだから。
私が受け取った物だけを、ちゃんと描く。
それがきっと文章という物なのだろう。
この方法だったなら、主語が「僕」であることも抵抗はないし、
文章に関わる人全員で、真実を目指していくということにもなるのだろう。
Saturday 18 April 2015
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