Tuesday, 23 December 2014

Pesta Boneka (3)村のお話

今回、色んな面白いことがあった。
奏さんの作品の準備をしているとき、
奏さんが「わたし」といいながら自分の鼻を指さす仕草をした。
それをプトリというインドネシアの女の子がまねをして「わたし」といって自分の鼻を指さしたら、
横にいたリースが急に強い言葉で、
「その仕草は日本人のものである。
インドネシア人は自分が頭にあるとは思っていない。
私たちの心は、胸のところにあるし、さらには指ではなくて手のひら全部で指すのだ。
プトリ、そんな影響はいらない。インドネシア人らしく振る舞いなさい。」
といって
私はすくなからずショックを受けてしまった。

ショックを受けた理由はいくつもある。
まず私自身が、自分たちの出し物は、人形劇という言葉いらずの世界に比べて、
とても言葉的、概念的、頭的かもしれないと思ってしまっていたこと。
それ指摘された気がして、ずきっと痛んでしまった。
そもそも強い言葉に聞こえたのも、自分の思い込みだったのかもしれない。
自分が悩んでいたというだけ。

だけど、私は、どちらかというと欧米の人と出会って、
自分が言葉足らずであること、なにもいえないことにとまどってきたのだった。

言葉だって、言葉いらずの世界を目指している。
きっと言葉によるその世界も可能だと思う。
そういうことができるように、できることから実行する。
かなでさんと西山君と実現できたことが最高に嬉しい。
のびのびとこれからは、また作って行きたい。

そしてKepek村である。
Kepek村での料理大会は、壮絶だった。
村の少女達が、二人ずつ各国のグループに手伝いについてくれた。
私たちについてくれたのは、スチとインタン。
市場へ歩いて行って、通訳をしてもらって、足りない材料を見繕う。

太巻き寿司を作るのに、
西山君がコンロを確保して、あつーい卵焼きを作ってくれる。
手際がものすごく良くて素敵だった。
かなでさんが色んな食材を切って、酢飯の準備。
私は料理の時は使い物にならないので、洗い物とかをしていて、
ぼんやりコンロコーナーの西山君を見に行ったら、
とっくに卵焼きを終えて、村のお母様達に、
テンペ(インドネシアの食材、発酵した大豆食品。)の揚げ方指導を受けていて
油が足りないから取りに行ってこい!
と言われているところだった。
西山君が、じゃあ、恩蔵さんこれ見ていてください、とまかせてくれて、
油を取りに行ってくれた後、
私は村のお母様達をひやひやさせながら、
テンペをひっくり返してはびしゃーっと油を飛ばし、しかめつらされ、笑われ、
最後まで面倒を見てもらって、
「パレ!」というお母様の号令が、「ひっくり返せ!」という言葉だということだけはしっかり覚えたし、
テンペだけはちゃんと揚げられるようになって帰ってきた。
6枚揚げて、かなでさんと西山君のところをどうしてるかなと眺めたら、すごかった。
寿司の威力絶大。お寿司様、という感じ。

奏さんの指導でお母様達子供達が手伝って巻きすで巻いて巻いて、
巻いたそばから、売れていく。
子供の手があちこちからのびて、一瞬も休まることのない大戦場だった。
かなでさんは、超絶きりっとした顔をして、話しかけるのが本気で怖かった。
寿司マスターとして殺伐とした(うそ)見事な仕事ぶり。
台を常に綺麗に保ち、また仕上げていくことに、周りの女性からため息が漏れていた。

そのときだけは、ただ立っている私にもちょうだいちょうだいと声がかかる。

そんな中ひときわ目立つ女の子がいた。
12歳といっていただろうか。
表情が特別だった。
ダンスをやっているというからか、神がかったような特別な目の動きをする。
彼女に誘われるまま村の中を歩いた。

村の中には子供達が描いたいくつもの大きな布絵が立っていた。
これは鬼の話で、彼女はこのあと、このいくつもの布絵の間で行われる劇に、
鬼よりもずっと賢い天狗役で登場するのだという。
インドネシア語と英語を駆使して一生懸命説明してくれる彼女に対して
一生懸命うなずく私。
鬼が村のチキンをすべてさらってしまったとき、落としていった黄金の歯の話。

ものすごく賢いladyとして最後まであきらめずに細かく説明してくれた後、
じゃあ私はうちにいって支度をしてくるからね、といって彼女は手を振った。

何はできなくても、こうして面倒を見てくれる人たちに会えるから素晴らしい。

かなでさんと西山君と合流して、すこしほっとした時間を過ごしたら、
なんだかパフォーマンスが始まった。

わらわらとひとだかりへよっていくと、西洋の音楽集団が笛を吹きバイオリンを弾き、
遠くの方から竹馬に乗った大きな大きな紙の恐竜がやってきた。
子供達の間を軽快にはねる大きな恐竜は、異様で、かっこいい。
ハンガリー人のタマスだった。
タマスはサングラスをかけ、恐竜を背負い、くるくると竹馬の上で踊った。

その後すぐ、例の村中を移動する鬼の人形劇が始まった。
千人くらいいるんじゃないかという観客を引き連れて、大移動。
オーストラリア出身のスーが、ものすごい形相で子供達を引き連れる。
逃げるチキン、歯を落とす鬼。
歯を手に入れて、強大な力を得て家を持ち上げる子供。
歯を盗まれまいとする村人、取り戻そうとする鬼。
演じる人たちも、観客も、押しては引いて。

あの子に会って、you did very well!といったら、ぴょんととびはねI'm beautiful!といって去って行った。

夜が訪れて、
設置された舞台でのパフォーマンスが始まった。
人はどんどん増して、何千人にもなっただろう。
村にござがどんどんひかれて、もうくたくたで、座れる場所があるのがほんとに嬉しかった。
主催者のリアやアニャはもう声がでなくなっているのに、それでも舞台に立っていた。

劇場も芸術も科学もまったく関係なくなった場所。
ただの村。暗闇の中、何千人もの人が集まって、みんな一人のただの人になって、
インドネシア語のお茶の間コメディーみたいなものすごい劇を
ぎゅうぎゅうに座りこんで目撃した。
一切通訳はないけれど、あんなに大きな、土が揺れるような笑い声をわたしは初めて聞いた。
みんな、笑い袋かと思うくらいに笑う。たがをはずして笑う。
私も一切内容がわからないのにおかしくておかしくて笑う。

目の前をいくつもの鬼が通り過ぎていった気がした。
いくつもの鬼が集まっている気がした。
いくつもの鬼を目撃した気がした。

アメリカも、イギリスも、ハンガリーも、インドネシアも、アフリカも、Kepek村も、日本も、
世界中どんな場所も、人類が同じだけの時間を過ごしてたどり着いた一つの場所。
ああ、なんでもなくなった、鬼を見た、そんな恐ろしい一夜だった。




Monday, 22 December 2014

Pesta Boneka (2)リースのこと

マンデラさんの追悼式典でのオバマさんの手話の通訳を担当した人が
偽物だったというニュースはずっと心に残っている。

厳しい審査があったはずで、絶対にミスはありえない、という場所に限って、
そういうことが起こる。

その人の手話は、本当にダンスのようで素晴らしかった。

こういうことがあると、自分が小さな時のことを思い出す。
例えば通訳になりたいな、と思ったことがあったこと。
でも実際は、自分は英語の特別な訓練や、通訳の訓練を全く受けることなく、
科学の分野で英語のトレーニングをして、
その縁で、たまたま翻訳の仕事をさせていただいたこと。
これだってあの手話の人とおんなじと言ったらおんなじだと思う。
(手話の人のダンス自体が素晴らしいというところには私はたどり着けていないのだけど。)

世界にはそういうことが起こりうるということは私にとっては単純に希望なのである。

今回のPesta Bonekaだっておんなじだ。
通常の人形劇団体だったら、Pesta Bonekaへの参加はどのくらい難しかっただろう。
今回は奇跡のような出会いと努力が重なって、なぜか私も人形劇の場所に立たせてもらった。

いつだって、どうして自分がここにいるかわからない、という感じがする。

あんまりにも不安で、前日かなでさんに自分の内容を確認してもらおうと思ったら
彼女も忙しくて喧嘩になった。
でもかなでさんは、多分、全て自分で決めて最後までやるってことを、
私にやって欲しかったんだろうと思う。
許可なんかとらなくていいからやってごらん、っていうことだったんだと思う。
そして実際そうできたことに、私は今とっても感謝している。

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私はリースという人に、私のやることを見て欲しかった。
前回インドネシアに行ったとき、かなでさんはアーティストとしてリースの施設で滞在して、
私はかなでさんの友人として一週間ちかくお邪魔した。
そのとき私はただの友人で科学者で、リースにとってはあまり接点のない人物として存在した。
それでもかなでさんと一緒に常にお世話してもらえて本当に感動したのだけれど。
印象的だったのは、かなでさんと一緒にあるアーティストの家を見せてもらいに行った時。
あまりにも素敵な家だったので感動していて、
その家でもやはりアーティストを滞在させているという話になったとき、
「あなたもここに滞在したいなら、まずアーティストになることね」
といわれた。
当たり前の発言なのに、ずきりと傷つく自分がいた。

どうしてアーティストじゃなきゃいけないの?

でも、確かに私はリースに自分のことを話すという努力をしなくて、
話したところでどうしたってリースの描く人とは違うのだろうけど、
なんだか幽霊のような存在として1週間過ごしてしまったことをずっと後悔していた。

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秋に名古屋で授業をやっていたとき、
やっぱりそこでも、私はその大学の教師ではなく、
その授業のためだけにその日やってきた人間なのだけれども、
1時間半まとめて一つの話をしたら、
なんとなく「誰だかわからない」というみんなの間の緊張がとけるんだ、
ということを実感した。

言わなければなんだかわからないのは当然だし、
言って、もう隅から隅までわかる親友、みたいになるわけじゃなくても、
ただまとめて話すだけで、
「あ、なんとなくそーゆーひとね」と
人と人との緊張がとけるということ。

わたしはもう、幽霊のように存在するのはいやだ。
その場になにか作りたい。

自分にそんな変化が起こった秋だった。
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リースは、実際に、私がspoken poetryをやっている間、すっぱいような顔をして、
ずーっとずーっと見ていてくれた(写真を見せてもらったところによると)。
その後やっぱりそのことについて話すということはできなかったけれど、
それは一つとっても嬉しいことだった。

Pesta Boneka(1)はじめてのSpoken Poetry

12月3日から、12月12日までインドネシアに行ってきた。
ジョグジャカルタで行われるPesta Boneka 4(International Biennale Puppet Festival 4)
に参加するためだった。

三日間にわたる人形劇の祝祭。
連日お昼過ぎからゆるゆると始まって、
夜10時半くらいまで各国のパフォーマンスがつづく。
すごかったのは、最終日。
各国でクッキング大会をやると聞いていて、
私たち日本のグループとしては
代表の奏さんのアイディアで、お寿司と日本茶を振る舞うことにして、
巻きすや、すしのこを日本から持って行ったのはいいのだけれど、
会場へと朝主催者が宿泊場所に車で迎えに来てくれて、連れて行かれたのは、
Kepekという村だった。

ジョグジャカルタ市から、30分ほど走っただろうか、
景色が田んぼに変わっていって、道も細くなったと思ったら、
大きな藁や布でできた人形が道案内にたち、空を飛び、
ひゅんひゅん目を回すうちに村に着いた。

劇場、ギャラリー、ホテル、そんな場所を何十分も離れて、
普通の村人が暮らす、大きな村。
今回の祝祭のために藁で飾り付けられたゲートをくぐる。





















pesta bonekaに参加している団体だけの国際交流みたいなクッキング大会を想像していたら、
むしろメインは村人の方で、
pesta bonekaの参加者は少数派。
これまでは英語も通じたけれど、英語どころか、インドネシア語の「ありがとう」すら
ジョグジャカルタとは違うという。
お互いに不思議そうな顔をしてしまうけど、
おじきをして”slamat pagi(おはようございます)"と言ってみると
とたんにおばあさんの笑顔が返ってきた。

村の人たちは、洗い物をするのに、井戸の水をくみ上げていた。
これはものすごいことになった、と思った。
「祝祭」という言葉の意味がはじめてわかるような時間になっていった。

前日までの各国のショーだって、端的に言って素晴らしかった。
人形劇は箱の中の小さな世界のものじゃない。
人間が人形を体に纏って、人形の顔と人間の顔とが糸でつながり、暗闇の中、
別の人間と恋をしていた。
あるいは、人形は、人間の手に抱かれ、人間の顔と顔をすりあわせて、母と子になった。
私が今までに持っていた「人形」という概念はめちゃくちゃに崩れて、
正直に言って、人形って何なのかわからない、と愕然として、
西山君としばらく無言でコーヒーを飲んだ。
人間と人形とが堂々と共存する、(黒子として人間が存在するのではない不思議な共存)そんなものを初めて見たのだった。
人間役として存在している人の、顔の豊かさに改めて驚いたことは確かだ。
私はどちらかというと人形によって、人間にびっくりしてしまったのかもしれない。

そこには物語いらずの存在があった。
ストーリーはシンプル。
たとえば母と子が愛情で結ばれているという物語。
もし複雑な物語があっても、私はそれを忘れてしまうだろう。

そんな人形を見せつけられる中、
私たちは、「人形とは何か」「物語とは何か」ということを科学者として問う、
そんなセッションをやることにしていた。

西山君と、自分たちのセッションを前にして、
「帰りたくなったね。とてもできないね」と笑った。

だけどやるしかないのであって、自分たちが希望して参加したのであった。

私がやろうと決めていたのは、
Spoken word poetryと呼ばれるものだった。
私のあこがれの人はSarah Kay。それからMalalaちゃんの演説。
まっすぐに思うことを口にして人に伝わる表現。

自分でいま信じることを人に伝わる形で表現すること。
私はいままで、科学の分野としても自分自身としても、
例えば「化粧」とか、「物語」とか、
そのままの自分とは違う存在についてずっと興味を持ってきた。
だから、人形劇の祝祭で、自分の興味がマッチしないことはない、と考えていた。

それから、私は、授業の経験や、池田塾での発表などで、
文章で書いたものを、口で言おうとすると、
言えることが変わることを知っていて、
文章ではつながっているように見えるロジックも、
口にするとまったくつながらなかったり、そもそも口に出せなかったり
そういうことが起こることを知っていて、
だから、口でしかいえない、私の身体全てを通した表現というもので勝負がしてみたい、
と思ってきた。
ちゃんとやったら、それは単なる科学的な文章ではなく、
科学の内容は中に入ってはいるけれども、一つの物語になるはずだ、と願って、
Spoken word poetryをやる、と宣言した。

やっぱり私が話すときには、科学ということから話をすることになる。
だけど、分野を問わず聞きに来てくれた人にとって、
「自分にとって関わりの無い話に聞こえるか」
そこは私の勝負だった。

私は、自分の科学の人生の始まりに、
それまでに思ってきた科学というものの思い込み全てを壊す体験をしていた。
三人の先生に同時に出会うことができたことによって。
科学は、自分の人生と全く離れていないということ、
それから、
いままで考えることをあきらめてきた全てのことを、
そういうことこそ考えるべきなのだと教えてもらった。
自分が生きるということと科学はおんなじだと知ったのだから、
私の科学も、みんなにとって関係のある話であってほしい。

でもそんなことはともかく
色んな人がのびのびと、楽しく作品を作っている。
その一つとして、私も存在できたら何よりも嬉しい。
チャンスをいただけて、一番やりたいことをやってみた、
はじめてのspoken poetry。
その映像をここにアップします。
大変つたない英語ですが、どうかみなさまの人生の7分間を耐えていただいて、
最後まで聞いてくださると幸いです。




友人の植田工くんが英語字幕をつけた編集をしてくださいました。
もしつたない英語とノイズで聞き取りにくい場合、英語字幕をオンにしてくださると嬉しいです。

(村の話へつづく)