Saturday 24 January 2009

真実の実在

私は高校生の時、物理を通して真実に近づける。そう思った。
大学で物理学科に入って、卒業する頃には、
逆にその物理の「無菌」が、真実とは遠い気がした。
我々の日常の、このうごうご蠢いて、変化し、そして雑多な
この豊穣さを扱わなくてはならないと思った。
そして認知科学や、脳科学に移って、
人間の行為を、また、人間の意識を、
肉体が主体的に「創り出す」という視点から、捉えたいと思ってきた。

オーストラリアの哲学者Alan Hajekさんとお話をしたときに、
私は、人間の創造性ということを考えたいが、
今は、例えば学習ということを考えてみても、
予め決められた目的に対していかに最適にそれが達成されるか、というようなことだけが問題とされて、
「統計」という、母集団を予め設定しなければ扱えないような、考え方が支配的である。
ここには創造性は入る余地がない、
それが私の嫌なことだ、というようなことをいったら、
彼は、
「君は何を専門にしていたんだっけ。認知科学?それなら、(そういう言葉を使うことは)わかる」
といった。
"creative"という言葉に関する、この反応が、なんだかずっと心に引っかかっていた。

真実の実在、ということが問題だったのではないか。
「真実なんて誰にも分からない」だから、「ない」、だから、「創る」のようになってはいないか。
そんなにゆるいことなら、したくない。
真実をあきらめている。

「例の、賃銭をもらって個人的に教える方の連中、ーーこの連中のことをしも、彼ら大衆はソフィストと呼んで、
自分たちの競争相手と考えているのだが、そのひとりひとりが実際に教えている内容はといえば、
まさにさっき話したような、そういう大衆自身の集合に際して形作られる多数者の通念以外の何者でもなく、
それが、このソフィストたちが「知恵」と称するところのものにほかならない、ということだ。

それはたとえば、人が、ある巨大で力の強い動物を飼育しながら、そのさまざまの気質や欲望について、
よくのみこむ場合のようなものだ。この動物にはどのようにして近寄り、どのようにして触れなければならないか。
どういうときにいちばん荒々しく、あるいはおとなしくなり、何が原因でそうなるのか。
どういう場合にそれぞれの声を発する習性があるか。逆に、こちらからどういう声をかけてやれば、
おだやかになったり、猛り立ったりするか、等々。

こういったすべてのことを、長い間いっしょにいて経験を積んだおかげで、よくのみこんでしまうと、
彼はこれを「知恵」と呼び、ひとつの技術の形にまとめ上げたうえで、それを教えることへと向かうのだ。
その動物が考えたり欲したりする、そういったさまざまのもののうち、
何が<美>であり<醜>であるか、何が<善>であり<悪>であるか、
何が<正>であり<不正>であるかについて、真実には何一つ知りもせずにね。
こうした呼び方の全てを、彼はその巨大な動物の考えに合わせて用いるのだ。
つまり、その動物が喜ぶものを「善いもの」と呼び、その動物が嫌うものを「悪いもの」と呼んで、
ほかにはそれらについて何一つ根拠を持っていない。
要するに、必要やむを得ざるものを「正しい事柄」とよび「美しい事柄」と呼んでいるだけのことであって、
そういう<必要なもの>と<善いもの>とでは、その本性が真にどれほど異なっているかについては、
自分でも見極めたことがないし、他人にも教え示すことが出来ないのだ。

(中略)

それでは、種々雑多な人々の集まりからなる群衆の気質や好みをよく心得ていることをもって、
<知恵>であると考えている者ーーそれは絵画の場合でも、音楽の場合でも、それからむろん政治の場合もそうだがーー
そういう者は、いま述べたような動物飼育者と比べて、いささかでも違うところがあると思うかね?
実際、もし誰かがそういう群衆と付き合って、自分の詩その他の制作品や、国のための制作などを披露し、
その際必要以上に自分を多数者の権威にゆだねるならば、そのような人は、何でも多数者がほめるとおりのことを
為さざるを得ないのは、まさに世に言うところの「ディオメデス的強制(必然)」だろうからね。
けれども、その多数者がほめることが、ほんとうによいことであり美しいことであるという理由付けの議論となると、
君はこれまでそういう連中のうちの誰かから、噴飯ものでないような議論を聞いたことがあるかね?」

(プラトン著 「国家」 藤沢令夫訳 岩波文庫から抜粋)

この本は本当に激しい。激しい愛に満ちている。

目に見えないけど、真実は確かにある。
そのように生きることが問題で、
私が揺らぐのは、真実への愛がいまだ、確固としたものになっていないからだ。

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