Monday 29 May 2017

Cued recall.

『種の起源』のダーウィンの従兄に、フランシス・ゴルトンという科学者であり探検家である人がいる。
彼は、今では、自分の人生の記憶(*専門的には自伝的記憶(autobiographical memory)と呼ばれる)についての研究で、必ず参照される人になっている。
彼は自分の頭のなかに、気付かぬうちにどれほどおおくの想念が通り過ぎていくかを、把握しようとした。
ぼうっとしていると、それが浮かんでいることにも気付かないが、かといって
覚醒していると、一つのことに集中してしまって、あまり想念が自由に通り過ぎていかない。
覚醒して観察できているものだけが、心じゃない。
彼は、本当はどれくらい多くの、どんな性質のことが通り過ぎているのか知ることで、
思わぬ心の骨格が見えてくるのではないかと考えた。
ぼうっとしつつ覚醒するなんて作業ができるかどうかはわからないけれど、
彼は兎に角やってみることにした。
どうやったか。
彼はよく歩いた。歩いていると、目の中にさまざまな刺激が入ってくる。
植物だって、一カ所でも何種類も生えていて、歩を進める毎に変わっていく。
建物だって、家も見えれば、商店も見える、
子供を連れる母親、馬に乗る紳士、次々景色は変わっていく。
こうして目に入った一つの物体について、自由に心を彷徨わせて、二、三個浮かんでくるまで待って、そしたらそれらを記憶に留めて、次の物体に進む、という形で、300もの物体を通り過ぎたらしい。(すなわち1000もの想念を記憶したことになる。)
後で内容を分析してみると、こうして街中を歩いて目に入ってきた物体により、
自分の人生のありとあらゆる時代のことが思い出せていた、と
彼は論文に書いている(Francis Galton, F. R. S. (1879) Psychometric experiments. Brain(2), pp149-162) 。
こんなことまで覚えていたのかと驚かされたし、
それがなんなのか把握するまでに時間が掛かるようなこともあった、と。
歩いて入ってくる刺激だけで、人生のさまざまなフェーズの出来事を思い出すには十分。

私が幼いとき、祖父や祖母がいて、両親がいて、兄がいて、壊れるなんてことを一ミリも考えない安泰の世界が続いた。
でも37歳の今は違う。少しずつ色んな事が変わっていて、崩れていて、
だからだろうか。
いつもの喫茶店まで歩く道で、最近あまりにも鮮やかに、過去を思い出すことがある。
たとえば、道祖神の前で幼稚園バスを待つ母娘を見たときには、
中学生のころ車で駅まで向かえに来てくれていた母親の顔を思い出した。
「いやいや、これは今起こっていることじゃない」と自分に言い聞かせてしまうほどに鮮やかだった。

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