もっとも美しいことについては、やはり、書くことができない。
それを言わなくても、それがあることがわかる文章が書けているといいと思う。
なんというんだろう、みなくても、そこにあることがわかる、あの沖縄のウタキのように。
私が、みなくても、そこにあるものは、ある。
そういう風を気取るということとは違うこと。
自分を守って言わないこととは違うこと。
Monday 2 April 2012
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Since 6 Feb 2007
3 comments:
感覚しているものは全てクオリアであることは言うまでもないことで、「美しい」というinner feelingもその1つで、それがprivateなものであることも当然で、その感覚を自然言語という粗雑なインターフェイスで他者の心へ完全に伝えることは原理的に不可能でさえあるかもしれないとも思います。
でもそのprivateなinner feelingを他者へと完全に伝えることができるテクノロジーがもしも開発された暁にはどうなるのだろうと思ったりもします。(そのうちにこのようなことをテーマにしたショートSF小説を書こうかなあと思っていますが。)
『エヴァンゲリオン』の人類補完計画のような感じですが、ある個人の感覚を他者へ完全に伝えることが可能な世界を、恩蔵さんは美しいと思われますか?
田村さん
どんなことを伝え合うべきなのか、ということは大切な問題だと思っています。私には、確かに、他人と共有したい、という気持ちがあるようです。そして、それが、自分自身のことではなく、何か、本当に伝えたいと思う出来事についてであるようにと、思うのですが、難しいです。
これは言葉の問題でしょうか。
言葉では表現しづらい、言葉では表現できない感情
特にわたしにとって「愛」がそうだと思うのですが、
表現しようと思ってもできない時、
わたしは感じるままに身を委ねることにしてます。
ちょっと後で、もしくはかなり長い間ペンデイング
にしておいた感情に出会った時、そのときに
また感じるものがあって、その感情と言葉がマッチすれば、それがわたしを書くという行為へ追いやるような感覚を持ってます。絢子さんの文章からはいつも何かしらのイメージが伝わってきて、絢子さんには「見えなくていい」かもしれないのに、わたしにはなぜか「見えてくる」ような不思議な体験をしています。
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