2月10日から14日、茂木さんの飛鳥II乗船おみおくり、
また、シンガポール国立大学の田谷さんをたずねて、シンガポールへいった。
シンガポール・ビエンナーレで見た作品『Between Worlds』by Nasirun.
ここの部屋から見よう、という感じで入ってすぐ、右側を向いたら、
もう一つの部屋がぱっくりとむかえていて、その一番奥に、
透明な、照明を受けて輝く、おおきなガラスの寺院のようなものがあった。
その前にいくつかの作品があって、それも無視できないけれど、
わぁぁ・・あそこに早く行ってみたい、そんな気持ちでどきどきした。
徐々に近づく。
全てが透き通った、ガラスの質感、光ファイバーかなんかで、下から照らされた、
透明の色んな色の質感。
その寺院のようなものは、とにかくなんだか、たくさんの透明のものからなっている。
プラスチック板のような透明のものでできた薄い、
カラフルな紙人形のようなものが、ビーカーやフラスコなどのガラスの瓶に閉じ込められている。
神様たち?妖怪たち?
"Nasirun has placed a cast of imaginary characters."
説明書きの最初にそう書いてあって、それだけ読んだ。
想像上の生き物たち。
心の中を見るみたいだな、と思った。
見とれていたら、
植田君がやっぱり見とれた顔で、「ゲーテ、思い出しちゃったねえ」といった。
「人工物はガラス瓶の中。」
うん、わかる、でも、なんか明らかに、インドネシアのあたりの、神様のような、生き物。
それが、化学の実験に使われるようなガラス瓶におさまっている。
ひょっとして、私の中の神様も、こんな風に、普遍性を獲得することができるの?
いままで、極めて東洋的で、あらわしようのなかった、何かを、
そのままで素晴らしいじゃないか、といわれた気持ちがした。
西洋の人がキュレーションをしたときの「アジア」とは、全然違う、成立の仕方をしていた。
一つひとつはガラス瓶の中。隔離されて、いくつもの世界が同時にある。
交わらない、だけど全部ある。
「生き生きとした」「標本」。
その全部が一つの寺院を作ってる。
心の中に、こういう寺院が造れたら、それだけでいいな、と思った。
私の中で生きている、大事なものを集めていって、いつかこんな素敵な寺院ができたら、いいな。
それをこうして見せられて、私みたいに、虫が光に集まるように、人がすいよせられることがあるなら、
本当にすごいな。
シンガポールって、なんだかすごかった。まさに、この作品みたいだった。
この作品の作者は、インドネシアの方なのだけれども。
シンガポールは、アジアの中の、ニューヨークみたいで、
色んな国のアジア人がいて、何処の誰でも気にしない。
すごく呼吸がしやすかった。
体格が比較的、西洋の人みたいにがっちりしていて、すっごく勢いがあって、
また、ひとつの見方では「人工的」な国なのかも知れないけれども、
レストランの人も、入国審査の人も、ホテルの人も、街で話しかけてきた人も、
不思議とみんなおおらかな南国的な笑顔を向けてくれて、なんだか、自分自身に安心しているように見えた。
私は、自分の中のアジアを育てていこう。
そう思った。
Saturday, 22 February 2014
Tuesday, 4 February 2014
発表(つづき)
研究室のメンバーも変わっていた。
あの時にいた先輩達は、誰もいない。
さまざまな研究所で、ご自身の研究をされている。
私も、とっくに卒業したのだが、どうしてか、
まだ今茂木さんと一緒に研究させてもらっている。
研究室の中のいちばんの古株になって。
そして、今度は、私が、このシンポジウムで発表をすることになった。
後輩の石川君と一緒に。
茂木さんや、郡司さん、池上さんという、
あの運命の時に、お話しをされた人達の前で、同じ場所で。
1月20日、21日という日程で、私の発表は21日だった。
茂木さんも、郡司さんも、池上さんも、個人的に本当にあれ以来お世話になっていて、
とくに今更緊張する必要などないような間柄ではあるけれども、
壇に立って、マイクを持って声を出した瞬間に、異常な緊張を自覚した。
声のコントロールがまったくきかず、震えてしまうのである。
言葉が出てこなくなって、焦った。
まったく、その瞬間まで、そこまでの緊張だという自覚がなかったために、
驚いてしまった。
20日の夜には、飲み会で、その日に発表された先生達に向かって、
言葉でかみつきさえしていたのに。
これは、ずるい、こんなはずではなかった、と思いながら、しゃべりつづけた。
私は、今の自分を、そのままに、言って良いということが嬉しかった。
実際にやれたことは、小さいし、びっくりするようなことなんか何もない。
あってもなくても良い研究。
でも、この場所では、自分の関心を、例え笑われるようなことでも、
あまり大事じゃないかもしれなくても、
本当に思っていることだったら、言っても良い。
私にとっては、ここはそういう場所だった。
他の学会では絶対にいえないようなこと。
それが本当に科学なんだということを、私は、私の科学の人生の最初に教えてもらった。後から、後から、自分が感謝の気持ちでいっぱいであることが実感された。
声が先に震えた。彼らの前で、正直に最大限、お話しできたことが嬉しかった。
終わってからは、何時間も、全く人の話が聞こえないくらいで、
まるで、夢の中にいるようだった。ようやく夢から出て、いまここに。
あの時にいた先輩達は、誰もいない。
さまざまな研究所で、ご自身の研究をされている。
私も、とっくに卒業したのだが、どうしてか、
まだ今茂木さんと一緒に研究させてもらっている。
研究室の中のいちばんの古株になって。
そして、今度は、私が、このシンポジウムで発表をすることになった。
後輩の石川君と一緒に。
茂木さんや、郡司さん、池上さんという、
あの運命の時に、お話しをされた人達の前で、同じ場所で。
1月20日、21日という日程で、私の発表は21日だった。
茂木さんも、郡司さんも、池上さんも、個人的に本当にあれ以来お世話になっていて、
とくに今更緊張する必要などないような間柄ではあるけれども、
壇に立って、マイクを持って声を出した瞬間に、異常な緊張を自覚した。
声のコントロールがまったくきかず、震えてしまうのである。
言葉が出てこなくなって、焦った。
まったく、その瞬間まで、そこまでの緊張だという自覚がなかったために、
驚いてしまった。
20日の夜には、飲み会で、その日に発表された先生達に向かって、
言葉でかみつきさえしていたのに。
これは、ずるい、こんなはずではなかった、と思いながら、しゃべりつづけた。
私は、今の自分を、そのままに、言って良いということが嬉しかった。
実際にやれたことは、小さいし、びっくりするようなことなんか何もない。
あってもなくても良い研究。
でも、この場所では、自分の関心を、例え笑われるようなことでも、
あまり大事じゃないかもしれなくても、
本当に思っていることだったら、言っても良い。
私にとっては、ここはそういう場所だった。
他の学会では絶対にいえないようなこと。
それが本当に科学なんだということを、私は、私の科学の人生の最初に教えてもらった。後から、後から、自分が感謝の気持ちでいっぱいであることが実感された。
声が先に震えた。彼らの前で、正直に最大限、お話しできたことが嬉しかった。
終わってからは、何時間も、全く人の話が聞こえないくらいで、
まるで、夢の中にいるようだった。ようやく夢から出て、いまここに。
京都基礎物理学研究所での発表
私が大学4年生で、大学院の入試も終えて、
茂木研究室に入ることが決まっていた、12年前の冬(2001年12月)。
茂木さんが、京都で養老孟司さんのいらっしゃるシンポジウムがあるから、
みんな来い、と、茂木研究室の学生達と、
私のような入る前の学生にまで声をかけて下さった。
茂木さんに出会ったのは、私が大学で物理をやっていて、
物理のあまりの無菌さに違和感を持ち始めていた夏の頃で、
複雑系というもっと、猥雑で面白い学問があるよ、と先輩達が熱を持って語るのを聞いて、
のこのこと、複雑系というのをやっている大学院の説明会に行ってみたら、
たまたま茂木さんがいたのだった。
だから、脳科学をはじめから知っていて、茂木さんに憧れたのではなかったし、
本も読んだことがなかった状態で出会ったのだが、
その姿を見て、ここに入ると、その場で決めてしまった。
そうして、試験を受けて、合格して、大学の物理の卒論に追われている、
まだ白紙のぼーっとした状態で、そのシンポジウムに行ったのだった。
京大の湯川記念講堂。
木の床の大きな講堂に、たくさんの木机がならんでいて、たくさんの人が座っていた。
私は本当に無知で、養老さんさえ、実は存じ上げず、
研究室の先輩達以外に、誰一人として、識別できる顔はなかった。
私はなんとなく真ん中の段の端っこの席に座って、話を聞き始めた。
ぼそぼそと、前の方の席に座らねばとても聞き取れないよ!
という小さな声で、発表を始めた方がいた。
全然聞こえないから、前のめりになって、一生懸命聞き取ろうとすると、
「1+5は、もしかしたら、いちごかもしれない」という声が聞こえた。
自分が何を聞いたのかわからなくって、気のせいかな、と思ったら、
気のせいではなく、
「フレーム問題」という名前も付いているようで、
しかも、その方が、あきらかに本気というか、
まるで、自分自身が生きていくことと等しいかのように、話されているので、
私はなんだか、めまいがしたのだった。
このめまいが、どういう種類のものかといえば、
いままで、私の知っている科学の世界の中では、
自分自身の問題と、科学の問題とは切り離されたものだった。
自分とは遠いところにある、深遠な、無菌の、真実を探す、という感じで、
それをやることによって、自分自身は崩れなかった。
そういう頭の使い方こそが、知性というものなのだと思っていた。
だけど、この人の話していることは、自分自身の話だった。
自分自身の、ほんとうに切実な話なんだ、という感じがした。
衝撃だった。
後から考えれば、自分自身が崩れてしまう、
そこに、深遠な真実がある、ということを、
私ははじめて知ったのだった。
自分自身から離れない場所に、だけど、ものすごく遠い、
本当の世界が広がっているのだということ。
その方のお名前は、郡司ペギオ幸夫さんというのだった。
その人の後にも、ここで話されることは、そういう種類のことだった。
「そういうことって、考えて良いんだ」ということが、私の最大の発見だった。
ものすごく自由に見えて、科学って、こんなに自由なんだ、と思った。
自分の小さな頃に、あるいは思春期の時に、感じていた、悩み、
考えても仕方がないんだと切り捨てることを推奨された悩みが、
蘇ったような気持ちがした。
そういうことこそ、考えるべきなんだ、それは考えて良い問題だったんだ、
それを私はここで教えてもらったのだった。
夜の飲み会では、
「おまえら、養老さんの前に行け!話してこい!」と茂木さんにいわれて、
目の前に座らせて頂いた。
養老さんは、私たちに
「君は死体を、触ったことがあるか。解剖しようと思うか。」
と聞かれた。
私は、12年経ったいまだにない。
それ以来、時々思い出しては、
そう聞かれたことの意味を考え、
そうすることになる瞬間を、私はずっと恐れている。
それからは、私はどんどん自由になっていた。
やりたいと過去に思ったことがあることを、
一個一個取り戻していくような、
心の底から水が湧いてくるような、
そういう思いを味わった。
いまでも、その最中であり、
あの、シンポジウムがなかったら、
私の人生はまったく違っていただろうと思う。
あの時から、自分は生まれた、と私は感じている。
そして、2014年1月。約12年ぶりにそのシンポジウムが開かれることになった。
茂木研究室に入ることが決まっていた、12年前の冬(2001年12月)。
茂木さんが、京都で養老孟司さんのいらっしゃるシンポジウムがあるから、
みんな来い、と、茂木研究室の学生達と、
私のような入る前の学生にまで声をかけて下さった。
茂木さんに出会ったのは、私が大学で物理をやっていて、
物理のあまりの無菌さに違和感を持ち始めていた夏の頃で、
複雑系というもっと、猥雑で面白い学問があるよ、と先輩達が熱を持って語るのを聞いて、
のこのこと、複雑系というのをやっている大学院の説明会に行ってみたら、
たまたま茂木さんがいたのだった。
だから、脳科学をはじめから知っていて、茂木さんに憧れたのではなかったし、
本も読んだことがなかった状態で出会ったのだが、
その姿を見て、ここに入ると、その場で決めてしまった。
そうして、試験を受けて、合格して、大学の物理の卒論に追われている、
まだ白紙のぼーっとした状態で、そのシンポジウムに行ったのだった。
京大の湯川記念講堂。
木の床の大きな講堂に、たくさんの木机がならんでいて、たくさんの人が座っていた。
私は本当に無知で、養老さんさえ、実は存じ上げず、
研究室の先輩達以外に、誰一人として、識別できる顔はなかった。
私はなんとなく真ん中の段の端っこの席に座って、話を聞き始めた。
ぼそぼそと、前の方の席に座らねばとても聞き取れないよ!
という小さな声で、発表を始めた方がいた。
全然聞こえないから、前のめりになって、一生懸命聞き取ろうとすると、
「1+5は、もしかしたら、いちごかもしれない」という声が聞こえた。
自分が何を聞いたのかわからなくって、気のせいかな、と思ったら、
気のせいではなく、
「フレーム問題」という名前も付いているようで、
しかも、その方が、あきらかに本気というか、
まるで、自分自身が生きていくことと等しいかのように、話されているので、
私はなんだか、めまいがしたのだった。
このめまいが、どういう種類のものかといえば、
いままで、私の知っている科学の世界の中では、
自分自身の問題と、科学の問題とは切り離されたものだった。
自分とは遠いところにある、深遠な、無菌の、真実を探す、という感じで、
それをやることによって、自分自身は崩れなかった。
そういう頭の使い方こそが、知性というものなのだと思っていた。
だけど、この人の話していることは、自分自身の話だった。
自分自身の、ほんとうに切実な話なんだ、という感じがした。
衝撃だった。
後から考えれば、自分自身が崩れてしまう、
そこに、深遠な真実がある、ということを、
私ははじめて知ったのだった。
自分自身から離れない場所に、だけど、ものすごく遠い、
本当の世界が広がっているのだということ。
その方のお名前は、郡司ペギオ幸夫さんというのだった。
その人の後にも、ここで話されることは、そういう種類のことだった。
「そういうことって、考えて良いんだ」ということが、私の最大の発見だった。
ものすごく自由に見えて、科学って、こんなに自由なんだ、と思った。
自分の小さな頃に、あるいは思春期の時に、感じていた、悩み、
考えても仕方がないんだと切り捨てることを推奨された悩みが、
蘇ったような気持ちがした。
そういうことこそ、考えるべきなんだ、それは考えて良い問題だったんだ、
それを私はここで教えてもらったのだった。
夜の飲み会では、
「おまえら、養老さんの前に行け!話してこい!」と茂木さんにいわれて、
目の前に座らせて頂いた。
養老さんは、私たちに
「君は死体を、触ったことがあるか。解剖しようと思うか。」
と聞かれた。
私は、12年経ったいまだにない。
それ以来、時々思い出しては、
そう聞かれたことの意味を考え、
そうすることになる瞬間を、私はずっと恐れている。
それからは、私はどんどん自由になっていた。
やりたいと過去に思ったことがあることを、
一個一個取り戻していくような、
心の底から水が湧いてくるような、
そういう思いを味わった。
いまでも、その最中であり、
あの、シンポジウムがなかったら、
私の人生はまったく違っていただろうと思う。
あの時から、自分は生まれた、と私は感じている。
そして、2014年1月。約12年ぶりにそのシンポジウムが開かれることになった。
With Ken Mogi & Tetsuo Ishikawa @ Yukawa Institute in Kyoto Univ. |
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