Wednesday, 3 April 2013

かなで旅立つ

姉妹のようにべったりだった友人が、フィリピンに行ってしまった。
半年後に一度帰ってくるらしいが、その後どうするかわからないといっていた。

友人がフィリピンに行った日、
両親が3泊4日の旅に出た。

料理とか、家事とか、全部やろう、と思った。

毎日朝夕まじめにご飯を作る。お掃除をする。洗濯をする。
なんとなくは、できた。

これまで毎日続けていないことは問題だったんだろうけど、
続けていないが故に、コンプレックスだった。

できた。少なくとも、この3日は。
(世の中には三日坊主っていう言葉があるのだ。すごい。)

(本当のことを言うと、見ないことにしたこともたくさんあった。)

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その友人が成田から出したらしい手紙が届いた。
やっと出られる、という感じがすると書いてあった。
「やっと」。
そうだね、あなたにとっては、やっと、なのかもしれない、
わかるよ、って思った。

それから、私が、料理をしたり、マリーナを思い出したり、
しないできたこと、しばらくしなかったこと、
そういうことをやり出すこと、
まるで知ってるようだった。

料理は彼女の得意分野だった。
そういえば、別れてからの方が、
自分の中のあなたが育つようなきがする、って前にいってたな。
わたしもそうなんだろう。

裏面一面、励ましの言葉が書いてあった。
彼女が住んでた町のお菓子と一緒に。




神像

2009年の、『伊勢神宮と神々の美術』という展覧会で
神像をはじめてみて、度肝を抜かれた。
中でも、夫須美大神坐像を見た時は、思わず吹きだしてしまうくらいだった。

神様というと、キリストのようなぎちぎちの姿や、
いくつかの仏像のような、厳しさしか知らなかった私にとって、
(私は、そういうものをどちらかというと愛してきた。)
そして、繊細さ、というものが自分の心の中で価値あるものだった私にとって、
昔の日本の人の心にあった神様というのは、
こんなにもおおらかな、ふっくらとした、やわらかい、どーんとしたものだったのか、と知ったら、
本当にびっくりして、
なんだか力が抜けたのだ。

痩せてなくてはならない気がしてた。
(肉体的には痩せられなかったんだけど。)

こんなにおおらかな神様なんて世界中他のどこにもいるわけないよ、
と思ってしまうような、
本当に絶対的なおおらかさに、目をぱちくりするしかなかった。
日本って、こういうものだったのか、
昔の人の心はこんなにおおらかで、ふくよかで、強くて、やさしいものだったのか、と思ったら、
なんだか誇らしく、
不思議と解放されていくような気がした。
自分の中には、きっと、こういうものが生きている、
いままで、神経質こそいいような気がしてたけど、それは違ったんだな、と
目が覚めるような思いだった。

私は、このとき、こんなふうにふくよかになりたい、と思った。
私の心の中に、憧れの像として、どーんと座った。
そういう意味では、
まさに、神の像を得たような気がしている。


建築マップFORES MUNDIより拝借いたしました。)