Tuesday, 31 May 2011

村へは帰るな

奥田知志さんのお話を聴いた。
聖書に次のような話があるらしい。
(私の記憶から書いているので曖昧な部分があります。)

ーーー
ある村に盲人がいた。
キリストが盲人を村の外へ連れ出し、両目に唾をかけた。
何か見えるか、と聞くと、なんちゃらかんちゃらが見える、と言う。
キリストは、また、目に手を当てた。
どんどん見えて来た。全てがはっきりと見えるようになった。
キリストが言った。「おまえはもう村には戻るな。家へ帰れ。」
ーーー

その盲人の家は、その村にあるはずである。
なのに、「もう村には戻るな、家へ帰れ。」
見えるようになった後は、元の村へは帰るな。
すごい話だなあ、と思った。


このところ、トルストイといい、奥田さんといい、
佐藤優さんといい、
キリスト教が体に染みこんだ人、
行動というところで信仰のある人、行動というところで、自らを試している人たちを見て、
信じられないくらいの感動を覚えている。


オスカーワイルドの『de profundis』には、キリストのことを述べた次のような箇所があった。

世界は完全なる神に最も近づこうとして、いつも聖者を愛してきたのだが、キリストは、自らを完全な人間に最も近づけようとして、いつも罪人を愛してきたように思われる。彼は、人を改心させたいなどとは思っていなかった。面白い泥棒を、退屈で正直な男に変えるのは、彼の目指したところではないのである。彼は罪や苦難を、それ自体で美しい、神聖なものとして、また完全な人間に近づく手段として、見ていたのである。

(中略)

キリストの道徳、それはひたすら、「共感」なのである。道徳とはまさにそうあるべきなのだ。彼がもし「彼女の罪は許された。なぜなら彼女は本当に愛したのだから。」という言葉しか残さなかったとしても、それは、それが言えたとしたら死んでも良いというような言葉である。彼の正義、それはひたすら、詩的な正義なのである。正義とはまさにそうあるべきなのだ。「その乞食は天国へ行くだろう。なぜなら彼はずっと不幸せだったのだから。」私はその人が天国に送られる理由としてこれ以上の理由など考えることはできない。

(以上私の拙訳。原文は以下。)

The world had always loved the saint as being the nearest possible approach to the perfection of God. Christ, through some divine instinct in him, seems to have always loved the sinner as being the nearest possible approach to the perfection of man. His primary desire was not to reform people, any more than his primary desire was to a relieve suffering. To turn an interesting thief into a tedious honest man was not his aim. He would have thought little of the Prisoners' Aid Society and other modern movements of the kind. The conversion of a publican into a Pharisee would not have seemed to him a great achievement. But in a manner not yet understood of the world he regarded sin and suffering as being in themselves beautiful holy things and modes of perfection.

His morality is all sympathy, just what morality should be. If the only thing that he ever said had been, 'Her sins are forgiven her because she loved much,' it would have been worth while dying to have said it. His justice is all poetical justice, exactly what justice should be. The beggar goes to heaven because he has been unhappy. I cannot conceive a better reason for his being sent there.

また、大澤真幸さんと、橋爪大三郎さんの、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)という本を読んだら、
どんなに無神論者だと西洋の哲学者や科学者が言っても、彼らにどれほどキリスト教が染みこんでいるか、ということが書いてあって、
それはそうだなあ、と思った。
キリストという人をとてつもないひとだと思うのに、
また、
キリスト教の神は、目に見えない、絶対的な、神で、
良いことをした人間が必ずしも救われる訳じゃないということ、
本当に理不尽な、なんの言うことも聞いてくれない神、
それでも神を愛するということが成立しているところが、
私は、自分がせいふぁうたきで感じたことと全く同じだと思うのに、
どうしてこれほど違うのか。

神学の勉強を始めようと思った。

3 comments:

田村修二 said...

こんにちは。以前、ツイッターで一度お話させていただいたものです。
>神学の勉強を始めようと思った。
とのことですので、参考までにある人をご紹介します。ところでこの人は、橋爪大三郎さん、野矢茂樹さんらと友人関係にあります。

http://kenkyudb.doshisha.ac.jp/rd/search/researcher/182004/index-j.html

私自身は今現在のところ宗教学、神学に特に興味を持っていませんが、私が神について言えるのは私は、ヒトが原理的に語り得ない存在を(ヴィトゲンシュタインの「語り得ぬもの」、チューリングマシンの停止判定不可能性など)、神のように感じているということです。
ただ、恩蔵さんのブログを読んで、私がこれまでに全く知らなかったキリスト(神)の姿をみました。
それでは。

田村修二 said...

すみません。
落合仁司さんです。

Ayako said...

>田村さま 本当に丁寧にお気持ちを伝えて下さるようなコメントをありがとうございます!落合さんのことも教えて下さりありがとうございました!