岸田劉生の静物画をみた。
美術館の中で遠くから、その一枚を見たとき、以前に一度見たことのあった、
岸田劉生の『麗子』の顔が頭の中に重なって、
岸田さんに間違いない、と思った。
湯飲みが二つ。
その両脇にみかんがいくつか。
その奧の壁はなんだか半分外に通じている。
湯飲みの口のその円形はなんだか斜めにちょっとずれていて
全体的にどこか、なにかが歪んでいて、
それなのに、
みればみるほど
「そこにある」感じがする。
その、「そこにある」感じというのは、
私の中では、恐山のお堂のなかにあった、誰かのスーツ、と全く同じ質感だった。
恐山のその、誰かのスーツ、というのは、
亡くなってしまったその人が、いつも着ていたものを、家族の人がそのままにそこに持ってきた、という感じのもので、
お堂の中には、そういった、誰かがいつも使っていた、そのままの、それ、が、たくさんたくさんおさめられている。
そういうものは、私に、「その人がそこにいるはずなのに、その人は死んでいる」、ということを感じさせて、
そんな簡単なことを理解するのが難しいほどだった。
そのスーツの存在感というのは、とてつもなくおおきくて、
「その人がそこにいるはず」ということを、疑いなく思わされてしまうのだった。
きっと、そのスーツを着る人は、この外にいる、
きっと、その湯飲みを使う人はこの絵の外にいる、
それほど湯飲みは「そこに在る」
でも、
その「外」というのが、
めのくらむようなかんじがするのだった。
ただ出かけているだけではないだろう、
今一瞬にいないだけではないだろう、
そういう感じがするのだった。
在る、ということとちゃんと描くと恐山になるのだと思った。
私が見たのはこれなわけではないのだけれども。このページより拝借。
Saturday, 18 December 2010
Friday, 3 December 2010
夏のような冬の日
Subscribe to:
Posts (Atom)