長谷川等伯展に行ってきた。
若い頃の絵に惹き付けられた。
本当に綺麗な色使いで、緻密に、激しい強さで、たくさん神様の絵を描いた。
描かれる人たちは、例えば、故事に出てくる人たちは、
みんなはっきりとしていて、
故事を描いているんじゃなくて、人がいる、という感じだった。
狂った人の絵がいっぱいあった。
達磨の、変なたった一本の草に乗って、川を渡る絵、
羅漢達、偉人達、
選ばれている瞬間は、みんな、狂っていた。
この人も神様のことばかり考えている人だったんだと思った。
この人の描く涅槃図は、大好きだった。あまりにも美しい沙羅双樹。
仏が死んで、様々な生き物がよってきて、鬼も悲しみ、神も悲しむ。
みんなが描くものだけど、なぜこの人の絵ははっきりとしていると思うんだろう?
なんだろう、どこか、絵に現実感がない。
例えば、故事の人に現実感を感じられたのは、私ははじめてだったのに、
矛盾したことに、どこか現実感がない。
そうか、この故事の人に現実感があるのではないのだな。
等伯の精神がすっごい好きだということなんだと思った。
その人が、俗世と交わった。
そうしたら、すっごい絵が出来た。
橋の絵。変な月がぼっこりあって、謎の柳がすごかった。
なんだそれ!
と思った。まちがいなくすっごいものだった。
橋がどこまでも架かって、水車がぐるぐる回ってた。
政治家も、神の人も、認めるに違いないすっごい絵だった。
その人が、最後に松林図を描く。
(正確には、人生の中で最後なのかどうかは知らない。展示の最後にあっただけ。)
それはすっごいと思った。
このすごさは私にはとてもまだ書けないけれど、
例えば、関わる人が変わっても、
この人はまったくぶれてない。
合わせない、ということじゃない。だって、この人の変化は劇烈だから。
でも、ぶれてない。絵を描くときだけだったとしても、ほんとうにハッキリとしている。
一貫しているのは、線に迷いがないということ。劇烈だということ。
笹がキラキラしていた。
この人は、常にお化けと一体だった。
そういう感じがした。
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長谷川等伯(信春)筆 善女龍王図 (石川県七尾美術館のサイトより。)
この絵はとても好き。若い頃の絵だけれど、これがずっと一貫しているように見えた。
Tuesday 2 March 2010
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