Saturday 20 June 2009

同じ日の三つ

書きっぱなしで、アップしていなかった日記を、ここに。

一方通行
June 6, 2009

評価を下すこと、意味だけを拾うこと、ものをいうこと、
そういうのはなんか全部疲れた。
面白がる、ことにさえ、疲れた。

私は、自意識の扱いに困ってる。

相手に命令するようなもの
feedbackをもとめる気持ち

私の判断というのが、どれだけ簡単に変わって、
どれだけ間違うか、ということ
正しいことなんて誰も分からないのに、
どうして、こうであれ、なんてことがあるんだろう。

そこへ行くと、神様はえらい。
こうであれ、とも、こうしたらいい、とも言わない。
何にも言わない。
祈っても、何にも、答えない。


私たち兄弟はどこかでおじいちゃんのことを尊敬して、恐れていて、
どんなに悪いことをしても、子供の時おじいちゃんが見てるよ、っといわれると
隠れて後からお線香をあげていた。
いまでもその習性は残っている。

おじいちゃんは戦争に行った。シベリアに行った。狼にあった。
いつでも畑にいた。さつまいもを作っていた。栗畑で遊んだ。
耕耘機を運転していた。おもちつきをした。
入院しても、点滴を引きながら別室に移動して習字を教えてくれた。
退院すると畑にいっていた。
習字で失敗したところをうえからなぞる二度書きのずるをした1回、
おじいちゃんにこのよのものとはおもえないほど怒られた。
怒られたのはそのたった1回だけだった。

こういうことは大事な思い出だけれども、
どうしてか、こういうことと、お線香をあげちゃうこととは何となく別かもしれない。
と思う。

feedbackと無縁になりたい。強靱な。
「意思」のようなものだけになりたい。

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感動してしまうのは、
特別覚えようとしていなかったことなのに、
あるときばっと思い出されてしまうこと。

自分にとって大事だって特別思い入れがあった訳じゃないこと。

どうしても忘れたくないこととかを
本当にあの時こうで、こうなってって、
絶対忘れないように、
本当にすり切れるほど何度も何度も思い返して、
忘れないようにしていることがある一方で、
些細な一瞬が、どういう風にか切り取られて、今こうして復活すること。
どんな風にその一瞬が選ばれるのか、
だって、この時っていうマーキングを全くしていないことが、
なぜかある長さで切り取られて出てきてしまうんだから、
覚えているってどういうことなのか、全然分からない。

何気なく、通り過ぎていった全てのこと。
私が覚えているって思っていることとは
なんだか別のことが動いている気がする。

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本当のこと、というのはなんだろう。

自分の推定を超えているようなこと。

言語で追える事実というのと違っていてもいいこと。
「事実」というのはなに?
誰々がどこで何をした。
それを支え、背景となるものはおそろしく深い。
事実と整合性がなければ、本質的なことではない、というのは間違い。

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