Tuesday, 27 November 2012
原っぱのこと
数日前、震災で行方不明になっている方の、
身元を明らかにしようとする警察官の人達のドキュメンタリーがNHKでやっていた。
亡くなった人の顔から、生きているときの似顔絵を描くプロの人がいて、
そうやって似顔絵を描いて情報を求めると、身元が判明することがかなりあるということだった。
そんな中、ほとんど情報が集まらない一人の人がいた。
ようやく、ある場所で一人で暮らしていた、人付き合いをあまりしない、高齢の男の人に間違いないのではないかという人が現れて、調べてみると、
その人は30年前に離婚をしていて、妻も子供もどこにいるかわからない状態にあった。
しかし、なんとか子供さんに辿り着いて、東京に暮らしていることがわかって、
DNA鑑定をさせて欲しいというと、
それは良いけれども、30年間会っていないから、もし父親だと分かっても遺骨は引き取りたくない、ということだった。
その子供さんは、もう40才くらいになっていて、結婚して子供もいるそうだった。
DNA鑑定をしたら、やっぱり父親であることが判明した。
それで、その東北の警察署まで来てもらって、今回の結果の説明をし、
これが、お父さんの手がかりとなったのです、と似顔絵を見せた。
面影はありますか?ときくと、
息子さんは、
10歳くらいの時に離れてから一度も会っていないということだったが、
ありますね、とはっきりいった。
警察官の人が、ご遺体は、顔にほとんど傷がなくて、綺麗なお顔だったので、その写真も一応持ってきているのですが、というと、
息子さんは、しばらく考えて、見なくていいです、といった。
遺骨と対面した後、
息子さんは、少し迷われたのか、お父さんの暮らしていた場所を見たい、といった。
「住所としては此処なんですけど・・」といわれた場所は
見事に何にもなくて、草がふさふさと膝丈くらいまで茂って、原っぱみたいになっていた。
息子さんは、ちょっと歩きたいといって、その原っぱに入っていった。
その家があった場所を、草の中を、
ふさふさふさふさ歩いては、止まって、
それで、泣いた。
その歩き方は、なんだか、本当に感動してしまった。
まるで、
もちろん線などないのだけれども、
ここが台所、ここが茶の間、ここが窓と確かめるように歩かれていて、
ここで30年間会っていないお父さんが、どうやってくらしていたかを、
年を経てどんな姿になっていたかを、感じ取るようで、
その方は、本当に会話をするように、時間を埋めるように、
声を立てずに誰にも頼らず、泣いていた。
結局一時間以上、その何にもない原っぱで過ごされたということだった。
その人は出てくると、「会いたかったんですねえ」といった。
「遺骨、持ってかえります」
真実って、その原っぱみたいな気がする。
そこには確かに、お父さんの家があった。お父さんが住んでいた。
ものすごくふさふさと綺麗な草が茂る何の線もない原っぱになっても、
お父さんの家があったのと、なかったのとは、全然違うのだと思った。
諦めなければならなかったこととかも、
原っぱみたいになっちゃったとしても、
それがあったのとなかったのとでは、全然違うと思った。
白洲信哉さんが、東京都知事選に出るというお話を聞いたとき、
私は夢を見た。まっすぐに夢って見ていいんだ、ってことを知った。
状況が変わって、断念されるということになったと聞いたけれども、
私にとっては全然違う。
私はそういう原っぱを、とっても大切だと思った。
Saturday, 10 November 2012
遠野(1の裏のような話として)
私は、一人では車が運転できないので、歩きか自転車で移動するしかない。
地図を眺めていて、デンデラ野という名前に引かれて、調べてみると、
姥捨て山というか、
60才になったらその場所に連れて行かれることになっていた場所とのことで、
今回は、ここだけは絶対に行きたい気がした。
遠野駅から、大体12キロくらいのようだった。
自転車でなら行けるはず。
ここが目的地になった。
遠野に着いたのは大体夕方の4時くらいだった。
もう暗くなりかけていた。
駅で早速自転車を借りて、
近場くらいはまわってみようかなと思いつつ、まず宿に向かった。
こんにちは〜と、福山荘と書かれたガラスの引き戸を開けると、
石油ストーブがあって、その前に猫ちゃんが丸くなっている。
おかみさんが出てきて下さった。
まあまあ、今日はどちらから?
神奈川です。
まあ、神奈川からお一人で。
はい、ずっと、遠野に来たい来たいと思っていて、ようやく来ることができました。
まあ、最近は、女の方がそうやって一人で見えることが多いんですよ。この前もねえ、民話の研究をしているとかいう方がいらっしゃいましたよ。
そうなんですか。
色々まわってみられるといいですよ、自転車ですか?
みなさん、伝承園やカッパ淵なんかによくいかれますねえ、
でもデンデラ野とよばれる辺りなんかまではちょっと遠すぎて、
男の方でもつらいつらいといってらっしゃいましたよ。
地図で見るとすぐのようですけれどもねえ。意外につらいらしいです。
それからねえ、五百羅漢と続石とこのデンデラ野というところは、
熊がちょくちょく出ているので、気をつけないといけません。
ええっ?私は、あの、実は、デンデラ野にいちばん行ってみたいと思っていたのです。
まあ、そうなんですか、
デンデラ野はねえ、姥捨て山というんで、
みなさん楢山節考なんかをイメージされているんですが、
実際の所は、途中に小屋があって、
60才以上のおばあさんたちがみんな一緒にそこで暮らして、
時々その山から下りて農作業なんか手伝ったりしながら、
亡くなるまでそこで暮らしたというような場所なんですねえ。
本当にただの野原のような場所ですねえ。
ただ、今ねえ、今年だけで遠野全体で熊が32頭捕獲されているんですよ。
ええ、しかもいまは、冬眠前で、一番危ない時期ですから、
たくさん人がいればいいですけど、ちょっとここは獣道という感じなんですよねえ、
自転車で一人というと、やっぱり・・・
5月くらいから8月くらいまでだとまだいいんですけれどもねえ・・
それから、草が刈られてればまだいいんですけど、
時期によってはねえ、草がぼうぼうになっていることがあるんですよ。
そうするとねえ、ちょっと怖いですよねえ。
・・・そうなんですか・・・どうしましょう。
そうですねえ、熊の鈴なんかつけてても、ねえ、一番危ない時期だから、やっぱり・・・
普通の民家にも出てるくらいなので、ちょっと心配ですねえ。
この間も、夜、黒い塊が牛小屋の前にあるから何かと思ったら熊だったとか私の友達も言っていたのですよ。うん、心配です。やめたほうがいいとおもいます。わぁ、そうですか、タクシーなんかではどうでしょう。
そうですねえ、ただ、遠いですから、
途中に伝承園という観光客の方がみんな行かれるような場所がありますから、
そこにタクシーがいるとおもうので、そこから拾うような感じにして、
そしていざとなったら、タクシーの中から、サファリパークのような感じで見られれば、絶対大丈夫ですねえ。
本当に素敵な女将さんだった。とてもとても親切で、寄り添ってお話しして下さる。
情報を話すと言うことではなくて、私に話をして下さっている、という感じがする。
その上、一緒に考えて下さっている。私はこの方のおっしゃることは守ろうと思った。
ところでこの辺りも熊が出るんですか?
卯子酉さまですか。ここは大丈夫ですねえ。車の通りのすぐ横でたくさん車が通りますから。
ここは今から行くのでは遠いですか?
自転車では10分くらいでつくとおもいますよ、大丈夫です。でも今何時でしたっけ、あっ四時ですか、うん、もう日が暮れますから、明日にされた方が良いと思います。
わかりました。
そうして私は、夜の時間をどう過ごそうかと考えて、
近くのホテルで聞けるという、語り部さんのお話を聞きに行ったのだった。
戻ってきて夕食を頂くと、
周りはみんな、働いている男の人達、という感じで、
なんとなく恥ずかしくなって私は、
気を紛らわそうと一人で熱燗なんか頼んで飲んでいた。
もっと遅くなってから、共同の洗面所で会った一人の方と少しお話が出来た。
建設業者の方で一年間この旅館に泊まっていたそうである。
次の日の朝、6時半に起きて、カーテンを開けると雨だった。
青空は出ているのに、かなりの雨が降っていた。
テレビで天気予報を付けると、私がいられる時間帯はずっと雨だった。
雷が鳴るかもとか言っている。
ただ、土地の名前が「遠野」というよりもっと細かい名前が使われていて、
岩手のどこのことなのか全然分からない。
自転車、もしかして絶望的かも・・・
私の一日はどうなっちゃうんだろう・・・
とりあえず、朝ご飯を食べようと思った。
食べ終わって玄関に向かうと、女将さんがいらっしゃった。
雨ですねえ。ちょっと今日自転車、心配ですねえ。
はい。そうですねえ。どうしたらいいでしょう・・
ちょっとねえ、でも、
バスがねえ、二時間に一本とかですが、あるんですよ。
だから、この足洗川という停留所で降りるとねえ、伝承園やカッパ淵まではすぐです。
そうですか。やっぱりそうですねえ、自転車が大丈夫な雨じゃないですね。わかりました、やめます。八時四十六分のバスで伝承園に行くことにします。
それまでは、少し時間があったし、昨日話に出た「卯子酉さま」に向かってみた。
「卯子酉さま」と女将さんが呼ぶことが、なんだか
女将さんの素敵さを表している気がして、
わたしにとっては、女将さんが語り部さんのような気がしてきた。
「卯子酉さま」には、「卯子酉さま」から、流れ出てきたような木の根があった。
男女を結ぶ神様のようで、
お願いが書かれた赤い布がいっぱい結びつけられていた。
卯子酉さまのすぐ横にあった愛宕神社にもお参りしようと思って、
ものすごく急な階段を上がっていくと、
なんだか山の中にずんずん入っていく感じがして、
途中で恐怖で足が完全に止まってしまった。
頭の中で熊が大きな大きな存在になっていた。
くるっと向きを変え、焦って、駆け足で降りてしまって、
雨で滑って、何段か落ち、
肘を思い切り石に打ちつけてしまったけれども、
そのまま振り返らずに帰ってきた。
びしょぬれというわけではないけれども、
かなり濡れてとても体が冷えてしまった。
デンデラ野がますます遠ざかる。
ここでこれでは、デンデラ野は、どうなっちゃうんだろう。
出会い方として、自転車で長々景色の中を走って、
徐々に一人で向かっていくのがいいような気がしていたけれども、
熊もいる、雨も冷たい、
絶対に無理だなあ、と思った。
でも雨が降ってくれたおかげで、
もう、絶対タクシーで行く、と心に後悔なく決めることが出来た。
バスに乗ると、一人だった。
伝承園についても、
観光客は誰もいなくて、私一人だった。
タクシーもいなかったのだが、
伝承園自体が、とてもよくて、
また、ここのみなさんもとても優しくて、
タクシーを呼んで下さり、ここがいちばんあったかいですよー、ここで待ったらいいですよーとか、様々な食べ物をお勧めしてもらったりして、なんだかとても心地がよいのだった。
いよいよ、タクシーに乗った。
寒さで、窓が曇るのを、きゅっきゅと何度も手で拭いて、外を見ていた。
紅葉した山々、稲の刈り取られた畑がずっとつづいた。
なんて美しいところなんだろうな、
それしか頭に浮かばなかった。
ここですよ。ここを上がったところだからね、と急にタクシーが止まる。
あ、はい、と緊張してカメラの入った鞄を持ち上げると、
鞄に付けていた熊鈴がりんりんなった。
おじさんが初めて笑って、ああ、持ってきたんだねえ、という。
熊、いますかねえ・・
うーん、いないとおもうけどねえ・・・
ごめんなさい、少し待っていて頂いても宜しいですか
ゆっくりしておいで
なんだか涙が出そうになったけれども、タクシーを降りた。
なるべくなるべく鈴が鳴るように、大袈裟に鞄をゆらしながら、上り坂を行く。
その金属音がいっそう心細い。
気が付くと、草が刈り取られて、なあんにもなくなった野原が広がっていた。
もしかして、ここ?
草刈ってあったよ女将さん、ありがたい、
でも、だからより一層なにもないって感じかも。
そこに立つと、びゅーびゅー風が吹いた。
目の前の山が美しかった。
なあんにもない、本当に本当に美しい場所だった。
デンデラ野は、亡くなる前にみんなが行くところ。
熊のよく出る場所。
来るのが難しい場所。
雨が降るとこんなに寒い場所。
本当に本当に美しい場所。
遠野はなんだか、この世のものとは思えないほどに美しい。
(福山荘、朝)
(サムトの婆から撮影。一瞬こんなに晴れたりするのだ。)
遠野(1)
遠野へ向かう
新幹線を新花巻駅で降りて、釜石線に乗り換える。
時刻表を見ると、電車がくるのは、一時間十分後だった。
釜石線のホームは、とても小さい。
そこに立っていると、景色の中にそのまま立っているような感じがする。
小さな待合室があって、おばあさんとおばさんが二人座って楽しそうに話していた。
なんとなく入りづらくて
私は、ホームに一人で立っていた。
電車がもうすぐくるという時間になって、二人は出てきた。
遠くに離れて立っていると、
津波が 津波が
という単語が聞こえてくる。
ああそうか、この電車は、釜石まで行く電車なのだ。
私ははっとさせられて、何となく身構えた。
実は私の母も亡くなったんです。
そんな声が聞こえた。
まあ、かわいそうに・・そうよねえ、と
おばあさんは声をつまらせた。
名前はなんというの?
母のですか?
いいえ、あなたの。
二人は見知らぬ人同士なのだった。
私は、物語の生まれる場所や時のことを考えていた。
新幹線の中でインターネットを見ていたら、
遠野物語には、津波の話があると知って、読んでいた。
それはこんな話だった。
明治の津波である人の奥さんが亡くなった。
それからしばらく経った、ある日の晩、
その旦那さんが、トイレに行くため海岸に出ると、
その奥さんが、別の男の人と歩いていた。
驚いてよくよく見てみたが、
やっぱり妻だと思って、話しかけると、
その女の人は、
私は、あなたと結婚する前に、別れさせられた、
本当に愛した人と今は一緒にいるのだ、と言った。
戻ってこいというと、
行けないといって、二人で消えて行ってしまった、
という話。
昔話だけじゃなく、結末の分からない物語が
いまここにあった。
私が聞いた会話の断片は、
私の中に大切にしまわれた。
私はなんだか釜石線にゆられている間
色々と動揺していた。
いつのまにか、コートのベルトがなくなっていた。
夜、語り部さんのお話を聞きにいった。
内田芳子さんという。
内田さんは、遠野にはどうしてそんなにたくさんの物語があるのかというと、
遠野は、七七十里といって、例えば、海側は、大槌、釜石、大船渡、内陸側は花巻など、
七つの土地からちょうど七十里、いまでいうところの、40キロくらいの距離にある場所で、
昔は一日で移動できるのが、ちょうどそのくらいだったから、
それらの場所からやって来たいろいろな人達が一晩泊まり、
夜、言葉を交わしていったからなのだ、とおっしゃった。
そして、
遠野の語り部達は、今、大槌に物語を語りに行っているのだけれども、
遠野物語にも津波の話があるから、まずその話をしましょうね、
と、上に書いた物語を語って下さった。
他には、おしらさま、柿売りとなんとか売りの話、迷い家、座敷童の話をして下さった。
内田さんは、語り部たちは、個人個人、自分の言葉で話すようにしているのだが、
自分は、自分のおばあちゃんなんかが夜寝る時に話してくれたのと同じに、
語っているつもりだとおっしゃった。
寝る前におばあちゃんが話してくれる話というのは、
いったいどういう種類のものなんだろう。
内田さんは好きな話とかがやっぱりあって
そういうのは繰り返し繰り返し聞きたがったとおっしゃった。
それは、私にしてみれば、おじいちゃんの戦争の話だ。
やっぱり肌で感じている話だから、
おばあちゃんが孫に繰り返し語るのだろうと思った。
外に出たら真っ暗だった。
旅館に戻って、夕ご飯を頂きに食堂に行くと、
男の人達がもくもくとご飯を食べていた。
どうやら観光客は私一人のようだった。
後で聞けば、建設会社の人達で、一年間ここに滞在して、仮設住宅や宿舎を作っているのだという。
次の日の朝、
曲がり屋と呼ばれる、昔の農家のおうち(菊池家)をそのまま移築した、
伝承園という場所に向かった。
私にとって、その場所は衝撃だった。
馬小屋が家の中にあった。
トイレは外なのに、馬小屋は、家の中にあった。
しかも、馬小屋と行っても、土間の端に、ただ柵が作られているだけという感じで、
台所と私の部屋と馬の部屋、といわんばかりで、
この馬と人との距離をみたら、
おしらさまは、やっぱり本当の話なのだとつくづく感じられた。
しかもその家の奧の奧には、御蚕神堂というものがあって
1000体ものおしらさま人形が納められていた。
昨夜、内田さんのはなしてくださったおしらさまは以下のような話だった。
ある家に白い馬がいた。
その家の娘さんはその馬が大好きで、いつも馬小屋に潜り込んで一緒に眠っているほどだった。
大きくなって、お父さんが、そろそろお嫁に行きなさい、というと、
私はこの馬がいるから行かない、この馬と一緒にいるから良いのだと言った。
娘があんまり聞かないので、お父さんは怒って、
馬をひきずりだし、桑の木にくくりつけて、その皮を剥いでいった。
娘さんは泣きさけんだが、お父さんはやめなかった。
半分くらい剥ぐと馬は死んで、後はするりと剥けた。
すると、その皮はひらりと娘さんを包んだ。
娘さんも死んでいた。
お父さんはもちろん悔やんだが、取り返しが付かなかった。
ある日の晩、娘が夢に現れた。
親孝行もしないで死んでご免なさい。
お詫びといってはなんだけど、3月何日にどこどこの土を掘って下さい。
白い虫がわんさかでるから、それに桑の葉を食べさせて、育てて、
何何すると糸がとれるから、それで織物をおって売って下さい、と言った。
隣で眠っていたお母さんも同じ夢を見ていた。
これはと思って、3月何日が来るのを待って、土を掘ると
言われたとおりに白い虫がわんさかでた。
言われたとおりにしてみると、宝の糸がとれた。
それで、お父さんとお母さんは、桑の木の枝で、
馬の頭を掘ったものと、娘の頭を掘ったものを作って
毎年一月に、おしら遊ばせといって、
その二つを遊ばせることになったのだ、という話。
その、おしらさま人形には、布に人という形の切れ目を入れて、かぶせるのだと内田さんはいっていた。
今と昔がちかちかした。今も物語がうごめいている感じがした。
今はなんだか、とっても、とっても、わからなかった。
(つづく。)
新幹線を新花巻駅で降りて、釜石線に乗り換える。
時刻表を見ると、電車がくるのは、一時間十分後だった。
釜石線のホームは、とても小さい。
そこに立っていると、景色の中にそのまま立っているような感じがする。
小さな待合室があって、おばあさんとおばさんが二人座って楽しそうに話していた。
なんとなく入りづらくて
私は、ホームに一人で立っていた。
電車がもうすぐくるという時間になって、二人は出てきた。
遠くに離れて立っていると、
津波が 津波が
という単語が聞こえてくる。
ああそうか、この電車は、釜石まで行く電車なのだ。
私ははっとさせられて、何となく身構えた。
実は私の母も亡くなったんです。
そんな声が聞こえた。
まあ、かわいそうに・・そうよねえ、と
おばあさんは声をつまらせた。
名前はなんというの?
母のですか?
いいえ、あなたの。
二人は見知らぬ人同士なのだった。
私は、物語の生まれる場所や時のことを考えていた。
新幹線の中でインターネットを見ていたら、
遠野物語には、津波の話があると知って、読んでいた。
それはこんな話だった。
明治の津波である人の奥さんが亡くなった。
それからしばらく経った、ある日の晩、
その旦那さんが、トイレに行くため海岸に出ると、
その奥さんが、別の男の人と歩いていた。
驚いてよくよく見てみたが、
やっぱり妻だと思って、話しかけると、
その女の人は、
私は、あなたと結婚する前に、別れさせられた、
本当に愛した人と今は一緒にいるのだ、と言った。
戻ってこいというと、
行けないといって、二人で消えて行ってしまった、
という話。
昔話だけじゃなく、結末の分からない物語が
いまここにあった。
私が聞いた会話の断片は、
私の中に大切にしまわれた。
私はなんだか釜石線にゆられている間
色々と動揺していた。
いつのまにか、コートのベルトがなくなっていた。
夜、語り部さんのお話を聞きにいった。
内田芳子さんという。
内田さんは、遠野にはどうしてそんなにたくさんの物語があるのかというと、
遠野は、七七十里といって、例えば、海側は、大槌、釜石、大船渡、内陸側は花巻など、
七つの土地からちょうど七十里、いまでいうところの、40キロくらいの距離にある場所で、
昔は一日で移動できるのが、ちょうどそのくらいだったから、
それらの場所からやって来たいろいろな人達が一晩泊まり、
夜、言葉を交わしていったからなのだ、とおっしゃった。
そして、
遠野の語り部達は、今、大槌に物語を語りに行っているのだけれども、
遠野物語にも津波の話があるから、まずその話をしましょうね、
と、上に書いた物語を語って下さった。
他には、おしらさま、柿売りとなんとか売りの話、迷い家、座敷童の話をして下さった。
内田さんは、語り部たちは、個人個人、自分の言葉で話すようにしているのだが、
自分は、自分のおばあちゃんなんかが夜寝る時に話してくれたのと同じに、
語っているつもりだとおっしゃった。
寝る前におばあちゃんが話してくれる話というのは、
いったいどういう種類のものなんだろう。
内田さんは好きな話とかがやっぱりあって
そういうのは繰り返し繰り返し聞きたがったとおっしゃった。
それは、私にしてみれば、おじいちゃんの戦争の話だ。
やっぱり肌で感じている話だから、
おばあちゃんが孫に繰り返し語るのだろうと思った。
外に出たら真っ暗だった。
旅館に戻って、夕ご飯を頂きに食堂に行くと、
男の人達がもくもくとご飯を食べていた。
どうやら観光客は私一人のようだった。
後で聞けば、建設会社の人達で、一年間ここに滞在して、仮設住宅や宿舎を作っているのだという。
次の日の朝、
曲がり屋と呼ばれる、昔の農家のおうち(菊池家)をそのまま移築した、
伝承園という場所に向かった。
私にとって、その場所は衝撃だった。
馬小屋が家の中にあった。
トイレは外なのに、馬小屋は、家の中にあった。
しかも、馬小屋と行っても、土間の端に、ただ柵が作られているだけという感じで、
台所と私の部屋と馬の部屋、といわんばかりで、
この馬と人との距離をみたら、
おしらさまは、やっぱり本当の話なのだとつくづく感じられた。
しかもその家の奧の奧には、御蚕神堂というものがあって
1000体ものおしらさま人形が納められていた。
昨夜、内田さんのはなしてくださったおしらさまは以下のような話だった。
ある家に白い馬がいた。
その家の娘さんはその馬が大好きで、いつも馬小屋に潜り込んで一緒に眠っているほどだった。
大きくなって、お父さんが、そろそろお嫁に行きなさい、というと、
私はこの馬がいるから行かない、この馬と一緒にいるから良いのだと言った。
娘があんまり聞かないので、お父さんは怒って、
馬をひきずりだし、桑の木にくくりつけて、その皮を剥いでいった。
娘さんは泣きさけんだが、お父さんはやめなかった。
半分くらい剥ぐと馬は死んで、後はするりと剥けた。
すると、その皮はひらりと娘さんを包んだ。
娘さんも死んでいた。
お父さんはもちろん悔やんだが、取り返しが付かなかった。
ある日の晩、娘が夢に現れた。
親孝行もしないで死んでご免なさい。
お詫びといってはなんだけど、3月何日にどこどこの土を掘って下さい。
白い虫がわんさかでるから、それに桑の葉を食べさせて、育てて、
何何すると糸がとれるから、それで織物をおって売って下さい、と言った。
隣で眠っていたお母さんも同じ夢を見ていた。
これはと思って、3月何日が来るのを待って、土を掘ると
言われたとおりに白い虫がわんさかでた。
言われたとおりにしてみると、宝の糸がとれた。
それで、お父さんとお母さんは、桑の木の枝で、
馬の頭を掘ったものと、娘の頭を掘ったものを作って
毎年一月に、おしら遊ばせといって、
その二つを遊ばせることになったのだ、という話。
その、おしらさま人形には、布に人という形の切れ目を入れて、かぶせるのだと内田さんはいっていた。
今と昔がちかちかした。今も物語がうごめいている感じがした。
今はなんだか、とっても、とっても、わからなかった。
(つづく。)
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